2014年西表島1~出発まで
2014年・西表島 | ナサマの岩場 | 干潮時間帯でないと渡れない |
2014年1月、
33日間の旅行のうち、1月30日から2月21日までの23日間を、西表島滞在に割り当てた。
数えると6度目の西表行になる。
1度目は宮古島で農業のバイトで金を貯めて、農閑期に台湾に行く途中で訪れる。1976年ごろであろうか。顛末はこのサイトの記事の通りだ。
南部海岸をナサマまで歩き、鹿川に行こうとしたが台風襲来で、大急ぎで豊原まで逃げ帰る。その後、山地縦断する。
浦内川渡し船を利用せず、完全徒歩横断するも、悪天候に蛭の攻撃、食糧切れとかなりひどい目に合う。
2度目はその1~2年後に、鳩間島経由で船浦へ。東部と西部の道路はつながっていなかった。白浜から船浦まで旅で知り合った方々と、のんびり歩く。
3度目は那覇で出会ったフランス人と二人で、大原から大浜にキャンプに行く。
購入して初めて使用するモンベルのツェルトは、広げてびっくり、ポールも張り綱も付属していない。別売りだとは知らなかった。
哀れにも被って寝ることに。フランス人に呆れられる。
4度目1995年、宮古島行のついでに西表を訪れて、大原~鹿川まで3名で4~5日の釣りキャンプ。 最終日、早朝から歩き始めるも、崎山半島で山道ルートを失い、半日近くさまよう。滞在日数切れで鹿川まで走るように逃げ帰り、鹿川湾にダイビングに来ていた船に頼み込んで、黒島まで運んでもらう。 崎山ルートは目印の赤テープが見つかるだろうと簡単に考えていたのだが、これが非常に甘かった。
5度目、1998年正月、家族全員と知人2名、総勢6名して船浮→鹿川をチャーター船で移動、鹿川~クイラ越え~大原を歩く。
その後の山地縦断は、悪天候による河川の増水を懸念し、山中より引き返す。
西表全図 |
そこでは、釣りか潮干狩りぐらいしかすることは無いのであるが、ワシは此処が大変お気に入りである。
このナサマに到着するには、最寄りの集落から歩きで一日、のんびりだと一泊二日ぐらいの行程となり、難所の岩場をクリアしなければならない環境にあるのも、手ごたえがある。 難所と言っても、冒険的でひどく危険というまでもないが、ちょいと即席アウトドア派にしてみれば、予め計画しておかないと、かなりの障害となる。
その障害の越え方はいくつかある。
その1、障害となる高さ10m以上の岩壁を、誰かが何時ぶら下げたか分からないロープを信じてよじ登る。
崖の高所から落ちたら、大怪我どころではない。また、そのロープ岩壁前のテラスに到着するには、大潮の最干潮時間帯に、その場に上陸していなければならない。
過去には岩壁転落で、いくつかの事故が。
その2、リュックを丈夫な防水シートに包んで、ロープで体と結んで海を泳いで渡る。干潮時間帯であれば水泳距離はほんの数十メートルで何ということは無いが、ここは鮫の大棲息地であることは、つとに知られている。
それに風波の影響を受けやすい地形であるうえに、怪我しやすい珊瑚とフジツボ、波が高いときは翻弄されて、短距離などと侮れない危険な行為となる。
その3、クイラ越えと言われる迂回路を使って、山道を1時間ほど歩くのであるが、それは獣道のように頼り無い道で、時期によっては数週間も誰一人通行しない。
初めての来訪者などは、事前に入念な調べをしていないと相当分かりにくい。ワシも今回、ルートを探すことが出来ず、山を超えて海岸まで降りられなかった。
ナサマの地名は、鹿川村のナサマという美しい娘が古見(南風見とも?)の青年との恋物語の末、この断崖で死したものとの伝説があるらしい。
この辺は「琉球大学ワンダーフォーゲルOB会の西表島西南部半島一周」などで検索することが出来る。
鹿川村は、明治37年に廃村となる。
その他、鹿川ではジュセイラという美しい巻貝が採取されることで、マニアの間で知られている。
この地には数十年前まで、鹿川仙人と呼ばれた世捨て人が長い間住んでいて、1976年に訪ねてみようと出かけたが、途中で台風の襲来で逃げ帰ったことがある。
仙人(三浦さん)はその後、肝臓を壊したとかで、豊原の町営住宅に住んでおられたが(以前ラジオニュースで聞く)最新の情報では石垣の病院に入院中であるとか。
1度目 1976年頃ナサマで | 2度目 1978年頃浦内川小船 | 1995年 ナサマ前の岩場 |
釣りをする | 5度目 1998年白浜で 船浮行き連絡線待ち |
ナサマでキャンプ |
あれから16年、なかなか行く機会がなかった西表島を、また訪れることができた。 旅行期間もやや長めであることから、費用を抑えるべくキャンプ主体とし、悪天候や食糧切れ、その他、諸事情が生じたときには集落で民宿泊とする。
携行するキャンプ用具と釣り道具・乾燥食糧はよくよく選抜して、石垣島のホテルに事前に送っておいたが、その荷物が梱包含めて宅配許容範囲の24㎏。
飛行機で別途携行した、カメラなど手回り品が5㎏ほど。
更に石垣に到着して追加補充した米・小麦粉・スパゲッティー・ラーメン・玉葱・人参・カセットガス3本・泡盛1リットルなど、いざ目の前にすると、恐れをなすほどの重量。
同行者は荷物を極度に嫌うので、このままでは、すべての食糧運搬を引き受けざるを得ないワシのリュックは、35㎏位になってしまう。 既に若くないワシの体、重さに耐えることが出来ずに故障すると動けなくなり、行動に大きな支障をきたす。
少しぐらいの故障も有るかも知れないと、かかりつけの医者から痛み止めの薬を60錠も出してもらってはいるが、そんなのはあてにできない。 そこで、さらに石垣でリュック重量を落とすべく荷物を厳選、ホテルに預かってもらうことにするのだが、ここで魚を突く「ヤス」をも削ってしまい、これは後に大後悔することとなる。
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