宮古島・労働篇5~農家へ

農繁期が終わり、別の農家へ

そこで作業に必要な軍手、なぜか沖縄では赤軍手が多く、しかも高級軍手らしく値も張る。
なぜ赤い必要があるのだろうかと、不思議に感じていた。
内地のホームセンターではあまり見かけたことは無いので、小さな疑問でした。

赤軍手 学生君と 現在の来間大橋
赤軍手 学生君と来間島からの帰り 現在の来間大橋

そして我らアルバイターも、各人の都合で一人、二人と離れて行き、ワシ一人になり、そして農協の繁忙期も終わると、そこでの仕事は無くなった。
すると農協さんは最後まで残って仕事をしていたワシに、人手が欲しい農家を紹介してくれたが、さすがに農協二階には宿泊出来ないので、民宿に移る。

その農家は民宿から歩いてすぐ、タバコの収穫やサトウキビ畑の手入れなどを手伝うという、好条件の仕事である。
そこには、その地では大型のトラクターを所有し、その農機でタバコ畑やキビ畑を耕耘し、新たに植え付けなおす仕事などと聞く。
車や機械運転は得意な方で、新たに作業を覚えられるので、これもまた絶好である。
農家のご夫婦はまたそろって良い人達で、そして色々な知識がこの親父さんによって、ワシに取り込まれる。こんなに良いことばかりあって良いのだろうか。

トラクターの使い方で難儀する

トラクターによる鋤起こしや砕土作業はずっと行った。しかし、ワシの悪い癖で、深く耕してやろうとして鋤を地中深くに突っ込み過ぎて鋤が刺さり込み、トラクターが前進も後退も出来なくなったことがある。それも二度ほど。
その時は他のトラクターに救援を求め、太いロープで引っ張って貰うことになった。
天地返しも、むやみに地中深くやれば良いということでもなかろうが、つい欲張って深く耕してしまう性格なのだ。

キビ畑を耕転する タバコ葉の選別風景
キビ畑を耕転する  タバコ葉の選別風景 

沖縄の夏は本当に酷暑で、日向に出ようものならクラクラと目まいがしそうで、日中の作業は体力も気力も奪い、効率も低下する。
そこで酷暑期の作業は夏時間に切り替わって、昼休みは二時間となり、昼食の後は昼寝タイムとなった。
ワシはまだ元気が有ったので、昼食を済ますとホンダカブを借りて、海にシュノーケリングに行くのが日課である。

町内運動会で走ったが…

滞在も長くなるとこんなこともある。
とある日、町内運動会参加の勧誘がきた。
勧誘員「運動会に出てくれ。あんたは若いから最長の800mにしたさー。あんた入れて3人しか走者はいないからねー。もう名簿に書くさー!800mを走る人いない訳さー」
なんと、出場はすでにほぼ強引に決定していた模様。

運動会まで一週間ほど…宿のおばちゃん「あんた、800mだよねー、練習しなくていいのかねー。みんな練習しているみたいだよー」
宿の小中生の娘達「そーさー、にいさんも練習しないと駄目さー!」
そう言われても、なんだかかったるくて何も練習などしなかった、さー!

真ん中で懸命に走っている 夕日の東平安名崎灯台
真ん中で懸命に走っている  夕日の東平安名崎灯台 

運動会、走り終わって5分ほど…なんだか頭が痛くなってきたよー
次いで……ウッ ウエッエー、ゲホー!!草むらで思い切り嘔吐してしまったさー。

すでにフラフラ歩きで顔色は青白くなっていたのであろうワシ→ やっぱり練習はした方がいいさー!!準備なしで走っては駄目さー!反省。

そんな日々を過ごしていたが、いよいよ農閑期となり、西表島と台湾へ旅行に行くことにして、宮古島を離れた。
ワシの青春のひとコマである。

しかしその後の40年間、釣行で訪れる、島でのイベント参加、八重山(石垣島周辺のこと)行きの途中に立ち寄るなど、なんやかんやと宮古島に行く機会があった。(機会を作ったが正確)
そしてすでに、その訪れた回数すらよく分からなくなった。

しかしあの時、下地町農協のバイトが見つからなかったら、その後どんな事になっていたのだろう、と考えることがある。
金と食糧が切れて仕事もなしとなった時、その後の計画や方針は決まってはいなかった。
今思うに、常識的な流れとしては旅に終止符を打ち、送金でも借金でも何とか工面して、帰宅の道を探すという方向なのだろう。

だが当時は若くて無計画な我らであった、いざそうなった時はまた別の道を模索したのだろうか。
とにかく幸運な我らである。

             労働篇5/5