宮古島労働篇1~出発~

うるまの風が招く

これは若い頃、Yと二人で旅に出た時の話だ。
それは当初は、長期間に及んでも良いから、許す限り琉球弧の島々を転々と南下して、叶うならば日本の最果ての島々に近づこうという計画だった。

その計画は大幅に頓挫し、結果的にワシとY、そして何の縁なのか、那覇から宮古島に向う船中で合流した京都からの大学生、この三人は、ここ宮古島の農協で、それは真面目に働くことになった。
そして我ら三人は汗だくで懸命に働き、本土から来た青年達は実に真面目な仕事ぶりだと、農協や近所ですこぶる良い評判を得ることになった。

ワシはこの列島でもなく諸島でもない、琉球弧という呼び方が好きだ。素敵で洒落た地理学的な響きだと思う。

そこには九州島から台湾島まで1300キロに渡って、弓の様な美しい弧を描いて、200近くの小さな島々が連なっている。
飛び石のようにぴょんぴょんと訪ねてみたくなるのは、至極当然のことであろう。

宮古そば 琉球弧
宮古そば 琉球弧

これらそれぞれの島嶼間の距離は、そこの島人が生活するには不便に、旅人が訪れるには適度に面白く離れており、亜熱帯の気候といい島のサイズといい、長期旅行を計画するには格好のターゲットである。

そのほとんどが小島であるから、幾日か滞在しては定期船に乗って次の島へ向かえば飽きることも無く、長期間の旅に適している。


20歳の時、初めてケービング協会の洞窟調査イベントで、沖縄島に行った時の衝撃と感動は、強烈なものだった。
その時に体中にしっかりと浸み込んだ「うるまの風」が、年を経てまたフリーターになったワシを、そよそよと怪しげに手招きしているようで、沖縄以外の選択肢はまったく考えることが出来ない。

イベントの宿泊所 風葬骨を整理中 散乱した風葬骨
イベントの宿泊所 風葬骨を整理中 散乱した風葬骨

ケービング協会のイベントには、玉泉洞近くの散乱した風葬骨整理作業もあった。
当時の写真の一部を紹介しておく。

洞窟の中で風葬骨を整理する


貧乏旅行の計画

近所のフリーターYに、その南下計画を告げる。
Yは「放浪・琉球・亜熱帯・離島キャンプ・島娘」の艶めかしい響きに、その脳ミソはすぐにとろけ、薬物に侵されたがごとくヨダレを垂らして聞き入っていたが。
「絶対に行く!行かん理由はなんも無かぜ!」
すでにその可笑しな丸い眼鏡の奥で、焦点不明の眼球が不気味に輝いている。

聞くまでもなくYは無一文であろうから、しばらくは必死で旅費を蓄えるように、と伝える。
Yは無職こそ最上を信条とする、生来のグータラ者。
そのせいで、少し働いてはパチンコと競艇でスッテンテンになり、煙草代にも困っては、近所の煙草屋の婆さんから代金を「つけ」にして貰っているのが常である。
煙草屋の婆さんも気がいいもので、数年前から煙草代金をノートに記録しては、その支払いに応じて時たま帳面を消す事が続いていた。

しかしそのグータラ者にとっても、初めての琉球弧南下計画は大いにそそられた様子で、Yはすぐにバイトに就いた。
それは、厨房機器や換気ダクト清掃などのバイトらしい。
Y「仕事は臭いし髪の毛には油が着くし、もー、汚のうてたまらんぜ!」とぶつぶつ言いながらも辛抱して働き、しばらくして二万数千円を貯めて、これでどうだろうと訪ねて来た。
少ないとは思ったが、ワシも同じくらいしか準備出来なかったので、ままよ、とまずは出発することになる。

西鹿児島から奄美へ

列車で西鹿児島駅に着くと、そこは南九州では珍しく、ボタボタと雪が降る寒い夜であった。
夜の埠頭に浮かぶその連絡船は、冬の東シナ海を何日もかけて渡るにしては、随分小さく見える。
その船は、照国郵船の照国丸だっただろうか?…波之上丸?だったか。
まあ波之上丸ということにしておこう。

船は指宿を右手に錦江湾を出て、東シナ海に進み出るや、途端に北西の季節風を受けて、ドドーン バッタン、ギーギーギーと音を立てて、激しくローリングする。
船室で普通にグダーと横になっていては体がゴロゴロと横転するので、両手両足を大の字に広げて床を押さえて転がり防止の支えにしないと、眠ることは出来なかった。ひどく揺れるなーと考えながらも、とにかく体が転がらないようにして、眠ることに集中する。

「横揺れ防止のフィンスタビライザー装備」なんていう洒落た横文字を聞いたのは、それから数年後の大型フェリーに乗った時の事であったから、波の上丸にはそんなものは装着していなかったのであろう。

そして翌朝、奄美大島に到着するや、Y「おまえ、良くあのめちゃ揺れの中で眠れるなー」と驚いている。
彼は一晩まったく眠ることは出来なかったようで、「沈没」の2文字がずっと脳裏にちらついたらしい。

鹿児島市では雪模様であったのに対して、ここ奄美大島では野原に花が咲き、蝶が舞い飛ぶ春の陽気に大いに驚きながら、島北部のアヤマル岬で数泊のキャンプ。
ここでいうキャンプは、原っぱや道路沿いの広場などで無断・無料で行うもので、それなりのマナーを維持すれば、当時は咎める人など皆無である。

奄美の次は沖永良部島に渡って、静かな海岸沿いの広場でキャンプ。ここでは島内交通が不便であったので、奮発してレンタカーで周遊することにした。

沖永良部レンタカー 沖永良部の岩場
沖永良部レンタカー 沖永良部の釣れそうな岩場

与論島から那覇へ

その次は、与論島で下船。船からのタラップを降りて、さて今日は何処でキャンプしようかとキョロキョロしていたが、港での強力な呼び込みの声に負けて、民宿送迎車に吸い込まれるようにスルスルと乗り込んでしまい、民宿赤崎荘に投宿、予定外の宿泊費。

次いで渡航した那覇市では、さすがにキャンプは困難だろうということで街、外れの天久(あめく)の民宿、天久荘に投宿。
こんなことをしていたから、既に資金が乏しくなってきた。
ワシとY「もう金は半分以上使うてしもうた!困ったぜ、どうするとや!」
Y「・・おー!パチンコで稼がんや?沖縄パチンコやスロットは出玉が激しいらしいぜ?」
ワシ「ヒャッホー、よしッ、明日は街にパチンコ行こうぜ。へっへっ頑張ろうぜ!」

翌日…開店後の僅かの時間で、いとも簡単にほとんどの金をパチンコで負けてしまった我らは、肩を落として歩いていた。
すでにバス代も惜しく、足取りも重く徒歩で民宿に戻る。

もともと旅費が少ないのは判かっていたのに、沖永良部レンタカーで4000円以上も使い、与論島やここ那覇で民宿泊まりの御大臣。
二人合わせて6万円足らずの旅費だから、この費用で数十日を旅しようと思ったら、全泊で無料キャンプを敢行しなければならないのは、明白である。

我らは深い反省のなか、残る3千円足らずの金を見つめて、今晩の宮古島行きの船に乗ることを決めた。船賃は2等で一名1210円。

天久荘のおばさん「宮古島で仕事はないかー、とな?小さな島だからねー。キビ刈りで忙しい時期ではあるけどよー。どーかねー?」

ほとんど文無しで宮古島へ

有村産業の宮古島行き定期船、八汐丸に乗り込んだ我ら、2等船室の片隅でヒソヒソ話する。
「どうするー? 宮古島に着いたらもう小銭しか無いぜ」
掌で百円玉2枚と十円玉が、チャラリ、と心もとない音を立てる。
「とにかくバイトを探さんと。この時期はサトウキビ刈りで農繁期らしい」
Y「どうやって人手がほしい農家を探すとやー?金は無かし、時間かけずにすぐに探さんといかんぜ」
「うん、その日のうちに探さんと。…んーっと、農協に紹介してもらうのはどやろか」
Y「どげんして紹介してもらうとや?」
「とにかく島に着いたら農協に電話してみるったい。…それから紹介された農家なり訪ねるしかなかろう」
Y「バイトするにしてもしないにしても、俺達、今日何処に泊まるとやー?」
「知るか、そんなこと!とにかくチャルメラを4回食うたら無一文たい。後は水でも飲むしかなかとぜー。お前がパチンコで負けるけん、こげん事に成るったい!!ボケが!」
Y「けーッ、どっちがやー!お前のほうが先に負けてしもうたやないか、へたくそが!…で、明日の朝飯は?」
「くわーっ…辛抱たい!!おまえは食い意地しか頭に無かとかー!」

ぐずぐずではあるが深刻な話をしていると、近くの席から色黒で口髭の小汚い同年輩の男性が、我らに向かって話しかけて来た。
小さな声で「…あのー…話が聞こえたんですけど……僕も仲間に入れてくれませんか…」

ワシら「んっ、なっ、何の?」
弱々しく、男「…バイトの事です…実は僕もほとんどお金が無くて…」
ワシ「金が無いって言っても、俺達は200円ぐらいしか持ってないんよ」
弱々しく、男「同じようなものです……京都から来た学生ですけど…横で話が聞こえてきて、是非仲間に入れて欲しいです…一人だとバイト探しも大変なので…」
ワシら「あっ、そー…?」
学生は小ざっぱり感とは正反対の、頭にぼっさり乗っかった艶の無い髪の毛と、似合わない口髭が印象的である。

元ロータリー付近(2014年) 今は無き旅客フェリー発着所
元ロータリー付近(2014年現在) 今は無き旅客フェリー発着所

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