世迷いごとの数々~父と娘と~

父とのかかわり

更新日誌を書いていて「椿説弓張月」なんて何気なく話題に出してしまい、更新原稿でも五黄のことを書いていたら、妙に父のことを思い出してしまった。
平成元年2月末、平成になってすぐ83歳で他界したから、今年(平成13年)13回忌も終えたのだが、このところ、妙に父の影を感じるような気がする。

影を感じるというと、何だかあの世からお迎えが来てるみたいだが、そうではない。このところ、別の世界から私のやろうとしている仕事を後押ししているような、妙に符号の一致することがあるのだ。
その詳細を早くお知らせできるようになればいい、と思っている。新しい事を始める時には生みの苦しみもあるが、今回は妙に勢いのついたような、目に見えないものが後押ししているような感じが強いのだ。

親を亡くすのは誰でも通る道だが、さまざまな感慨があると思う。私は父を亡くして以来、どういう訳か、一度も悲しくならないのだ。
一つは年が年だったこともあるし、生前から全く余分な口をきかず、家の中で静かに本を読んだり機械いじりをしている人だったので、いなくなってもあまり変わりがないせいかもしれない。(ちょっとひどい言い方だけど、事実)

五黄の章で書いた通り、父の本命は五黄土星だったが、石原、五木両氏が五黄土星の帝王のタイプ(この二人、生年月日が同じ)とするならば、父はどっちかというと無頼のほうに属していた。
清元の家元の三男坊だったが、戦争で満鉄の仕事に従事している間に、財産はすべて親類のものになっていた。

教養はあったが生活力がなく、また満州でその精気を使い果たしたのか、引き上げて来てからは何度か仕事をしても長続きせず、ほとんどの部分、母が洋裁の内職で子供3人を養った。
母に言わせると「あの人は庭の池の錦鯉を眺めて、バイオリンを弾きながらのんびり優雅に育ったんだから、仕方ないんだよ」

それでも、3人の子供を育てて最後まで夫婦をまっとうしたのは凄いことかもしれないが、この、仕事にエネルギーを使わなかったぶんは、全て娘のお守りの方に回ってしまった。

私は父が50歳近くなってから生まれた初子だったため、貧しくはあったが、ほんとに蝶よ花よで、まるで爺やと乳母に育てられたようなものである。
その為に、かなり変わったキャラクターが出来てしまったのは自分でも認めるが、手相などから見ても我ながら常人とは違うので、まあこれも、先天的にそういう巡りあわせだったのだろうと思う。

とにかく、まだ言葉もロクに話せない時期から、自分で本を読めるようになるまでの期間、一日も欠かさずに毎晩童話を読んでもらいながら寝付いたし、小学校入学と同時に毎朝ラジオの基礎英語の為に6時ちょうどに起こされた。(お陰で英語が嫌いになってしまったけど)

何か習い事がしたいとちょっと漏らせば、あちこち尋ねまわってすぐに先生をつけて貰った。
毎日の米も買えないような所帯だったのに、妙に文化度の高い育てられ方をしたので、金銭感覚もアンバランスなところがあるし、子供心に家の窮状を見かねて、親にいっさい要求をしない習慣もついてしまった。
それで、ひどくわがままな部分と、妙にオットリした部分がある。自己分析って、当たってるのかどうかと思う人も居るかもしれないが、私のはけっこう現実的でシビアな話なので、当たっていると思う。

そういう父親を持っているので、ひどく父親とのつながりが根が深い。かわす言葉は極端に少ないのに、かえってその為に、傍にいなくても、どこにいても自分の中に存在するのだ。

普遍?

例えば今、文章を書いているが、字を書くこと(パソコンだが)、文章で考えることじたいを父親と共有しているので…否、父親の血肉であるので、肉体の父親本人がいなくなっても、ちっともいなくなった気がしないのだ。

寝室の本棚には6歳からの愛読書である「レ・ミゼラブル」「シエイクスピア」「ギリシャ神話」他が、さまざまの訳で並んでいる。子供の頃の本じたいは滅んでいても、気持ちは布団の中で眠い目を懸命に開いていた3歳の頃と全く変わっていない。
小学校に上がるのを待ち構えたように父が買って来た本の数々が、今度は自分で選んだ訳で並んでいるのみである。何にも変わってはいない。

本を読めばそこに父がいるし、機械をいじればそこにもいるし、楽器をいじったり音楽を聴けばやはりいるし……と言うと、しょっちゅういるので鬱陶しいが、どこで何をしていても空気のようにそこに存在する。だから、今更死んだとか生きたとか、何も感じなくなってしまったかのように、感情がぜんぜん湧かなくなってしまったし、淋しくも悲しくもないのだ。

なんだか妙な話になってしまったが、人間の存在って何なのだろうか?
父が生きている時は、やはり病気やら金銭問題やらでドタバタしたが、父が亡くなってから、そういった人間的な雑事に煩わされることがなくなり、かえって父というものの本質が、見え出したような気がする。
これは果たして、父娘の問題に関することなのか、それとも生と死にかかわることなのか?

ただ、肉体が滅んでしまった父は、また別の次元で存在が強くなったような気がしているのは確かだ。それだけの時間を経て初めて、見えてくるもの、浮かび上がってくるものがあるのだろうか。13回忌って、やはり意味があるのかもしれない。
なんだか、単なるファザコンの話のようになってしまったが、自分自身の存在を含めて、親子とか生死って何なんだろうか、という気がしてくるのである。

終わり