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簡易美術館など

絵と小説のマッチング

ずいぶん大袈裟なタイトルですが、このサイトは今後、文学や映画方面への展開を予定しているので、その前振りです。
美術館なんて言いながら、実は筆者は、絵や彫刻があまり好きではありません。

好きでないと言うのは不正確で、毒を含んだ美術品を、予期せぬ時に不意に見せられてしまうのが、大嫌いなのです。なので、美術館はもちろん、知人の描いた絵を見て、と言われても、めったに見ません。芸術に強い関心があるわけではないのですが、けっこう自分なりの好き嫌いが強いのかもしれません。

無頓着な方は意外と、有名な作家のものは良いものなのだろう、と思っておられるかもしれませんが、名作とされているものにも、強い毒を含んだ作品はけっこうありますね。
暖かな心地よい安全なものだけで、この世界が成り立っているわけではないのでしょう。
芸術家って、自殺する方多いじゃないですか。喜怒哀楽とか、いろんな振れ幅が大きいのだろうと思います。つまりは、持てるエネルギーの問題なのではないでしょうか。


時間の芸術、空間の芸術

絵画は詳しくないので文学を例に取りますと、世界の名作とされるものの中で、元気の出る、心温まる祝福されるだけの話って、どのくらいの率になるでしょう?
結末がどうであれ、暗い悲惨な話のほうがずっと多くありませんか。
人間の悩みや苦しみにメスを入れて昇華させるのが、文学の役割だなんて言われますが、それじゃあ絵画などの美術品にもそういう力があるんじゃないか、と疑問を持つ方があるでしょう。

これはたぶん、時間の芸術と空間の芸術の違いではないか、と愚考します。
話はカンタンで、小説は嫌なら読むのをやめればいいけど、絵は一瞬で目に焼き付いてしまうではないですか。現物の絵なんて、その空間全体がその作品の小世界です。音楽もすぐ止めるかそこから遠ざかれば、最後まで聴かなくても済みますよね。
絵というのは強制力が強いので、ネットのサムネイル画像ていどならまだしも、現物の絵なんか見てしまった日には、全身に毒ビームを浴びちゃったような気分になります。

絵画とは、作者のその時期のエネルギーを写し取ったものと考えれば、心身がおかしい時の絵って、おかしなエネルギーが出てると思いませんか。ほんとに不気味な絵を描く人って、けっこう居ますからね。
小説は読むのに時間かかりますから、習作を人に読んでくれって依頼しづらいし、合わない本を読み続けるのは難しいです。絵もたぶん、真剣に描いている人は、やたらに他人には見せないと思います。作品って自分自身の、裸の分身みたいなものですから。

不気味な絵は嫌だ、とか何とか言いながら、私はホラー映画が大好きです。ホラーなら、どんなジャンルでもOK。最初からホラー見る体制ですからね。
何でこんなにホラー映画好きなんだ?と自分で考えましたが、エネルギーの強さがあっているのかも。それに映画って、時間と空間の総合芸術ですから、ストーリの遷移で初めて映画になるので、特定のシーンの画だけ見て評価はしません。
スプラッタやゴアだって、やりすぎるとコメディになってしまうので、怖がらせるのって意外に難しいんですよ。


絵が語るドラマ

絵に話を戻しますと、今回、何枚かの絵画を紹介します。全部、シェイクスピア絵画ですが、必ずしも明るい綺麗な絵ばかりではありません。人間の想念とか業みたいなものが滲み出ていて、ドラマが感じられるのではないでしょうか。

 
1枚目:真夏の夜の夢のタイテーニア。有名なロバート・ヒューズの絵なので、見たことのある方も多いと思います。シェイクスピアの中でも夢幻劇なので、妖精の女王が主役で、行き違いコメディみたいな話になっています。絵になる素材なので、とにかくいろんな絵が多量に出回っています。 


 
2枚目:言わずと知れたマクベス。ある夜、マクベスが三人の魔女に出くわし、自らの奥底に潜む権勢欲に目覚め、底知れぬ暗黒の世界への一歩を踏み出すシーンです。人品骨柄卑しからぬ武将の表情に走る、迷いと欲が見事に出ていて、いやーいい絵です。なんだか洞窟の中のように見えますが、魔女に会うのは荒野じゃなかったっけ?「きれいは汚い、汚いはきれい」シェイクスピアから一本だけ選ぶとしたら、マクベスかなあ。 


 
3枚目:分からない方があるかもしれません。これ、私が小学校2年で初めて与えられたシェイクスピア物語の冒頭に入っていた「あらし(テンペスト)」の1シーンなんです。魔術をものするプロスぺロが、離れ小島で妖精を使役しながら、娘と二人でいい暮らしをしているのですが、娘が年頃になり、さしもの万能の頑固ジジイの中にも、葛藤が生まれるのです。どうです?話の筋が分かってくると、なかなか味わい深いでしょう。 


ここでもう1枚、テンペストの中の絵をお見せします。この孤島に難破船が流れ着き、それを娘のミランダが発見したところで、二人の暮らしのバランスが崩れ始めるという、夢幻劇ながらとても人間らしい展開を見せます。

 難破船を凝視するミランダ(テンペストより)

この絵は、何と私の傍らに(と言っても机の引き出しだけど)ゆうに60年以上あります。最初のシェイクスピア物語の本の、一番最初のページに入っていた挿絵なので、この絵を見るとすぐに、ワクワクしながら小説を読んだ、子供の頃に戻れてしまうのです。
まあ本は増えすぎて家が埋まってしまう量になってきたので、今は全部スキャンしてPDFで読んでますけどね。

私がこんなに小説漬けで後戻りできない人間になってしまったのは、ひとえに毎月、自ら選ぶ推薦図書を買い与え続けた父親と、子供向けなのに超一流の翻訳者と超一流の挿絵の本を出し続けた、出版社のせいです…と海を見つめるミランダの背中を眺めながら、思うのでした。

こんな話になると、いつまでも書き続けられますが、絵の話でしたっけ?
必ずしも、綺麗な絵を見るだけが人生ではありません。病的なところのある画家の絵は見ないほうが良いと思いますが、こういうドラマを感じさせる絵は、心の奥底のいろんな想念をかき立てられて、わくわくします。
パブリックドメインの絵を沢山持っていますので、また機会があったら紹介しますが、シェイクスピア絵画だけで、当分はお腹いっぱいだと思います。

シェイクスピア絵画というのは、私は本の挿絵ていどなんだろう、と勝手に思っていたのですが、もの凄い一大絵画史となるぐらいの質量があります。その一端を垣間見る機会が訪れたのは、1992年11月のことでした。


西洋絵画のなかのシェイクスピア展

   
 シェイクスピア展
仕事帰りに新宿伊勢丹の前を通りかかると、「西洋絵画のなかのシェイクスピア展」という看板が目につき、興味をかき立てられてものは試しと入場してみたところ、度肝を抜かれました。

本の挿絵なんて、そんな生易しいものではなく、大小さまざまのド迫力の絵が、ところ狭しと展示されています。
いちばん凄かったのはリア王の1シーンで、壁いっぱい…というのを通り越し、かなり広い会場の一方の壁をすべて使った、巨大な一大叙事詩とでも言うべき、一枚の絵画が私を飲みこんだのでした。
絵の中の人間が、実際の人間の何倍サイズだったと記憶しています。

大きさといい内容といい、こんなの、いったいどうやって運んできたの?ばらすにしても組み立てが大変な作業でしょ、と首を傾げながら見入ってしまい、終了まで3日しかなかったので、その3日間通いました。残念ながら、私のミランダさんの絵はありませんでしたが、まるで異次元に足突っ込んだ感じでした。
バブル期だったから出来たことなのでしょうが、入場者少なかったですね。あれは単に挿絵と思って来た人や、シェイクスピア劇の内容をよく知らない人には、受け止められる迫力ではありませんから。私もかなり胸やけしました。そのこともあって、実物の絵画は少し警戒しています(笑)。

シェイクスピア絵画っていうとすぐに出て来る、ロミオとジュリエットのバルコニーシーンとか、ハムレットのオフィリアの入水自殺シーンとか、あれはほんの一部なのです。
ネット検索すると、他の会場で展示された作品構成が出てきますが、私が新宿で見たのとはだいぶ違うようです。あのリア王のド迫力の絵を見ずして、シェイクスピア展を見たということなかれ。
マスク作りが落ち着いたら、また楽しめるコンテンツを提供したいと思います。

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